日本最後の和式築城の概要

空から見た館城跡 

空から見た館城跡

(赤い線が史跡して範囲、黒い線が確認された外郭線)

 館城跡は、一辺が約200mの正方形に近い形です。
 現在、外郭線(堀や柵)の確認調査を進めていますが、北西側が未確認となっています。
 西側に正門があったと考えられ、発掘調査でも西側に堀や柵列が途切れる出入口状の構造が見つかっています。

 

増田家文書『館築城圖』

増田家文書『館築城圖』

(厚沢部町教育委員会所蔵の写本)

 江差町増田家の所有していた『館築城圖』には、館城跡の御殿に相当すると考えられる建物の絵図面が描かれています。
 平成21年度の発掘調査では、この絵図面と非常に良く一致する礎石配置が確認され、『館築城圖』の信頼性が高まりました。
 幕末維新期に建設された御殿の構造がわかる貴重な発見となっています。

 

礎石建物

礎石建物

(平成21年度調査でみつかった礎石建物跡)

 平成21年度の発掘調査では、247基の礎石が見つかりました。
 礎石の多くは赤く変色し、細かい剥離が見られることから、高熱を受けたと考えられます。落城に伴う火災によるものと考えられます。

 

館城跡の井戸跡

館城跡の井戸跡

 現在は3箇所の井戸が残されています。
 明治20年に館城跡を訪れた開拓者の二木小児郎は、十数基の井戸跡があることを自伝『福寿草』の中で述べています。

 

米倉跡

米倉跡

(平成20年度の発掘調査の様子)

 地域住民から「米倉跡」と呼ばれていた箇所で、焼けた米が大量に出土したことからこのように呼ばれるようになったものと考えられます。かつては、焼けた米がうず高く積まれていたとか。

 平成20年、21年に発掘調査が行われ、焼土と炭化米が出土しました。建物の跡は見つからなかったことから、米倉そのものがこの場所にあったわけではないようです。

 

堀と土塁

堀と土塁

 館城跡の堀は俗に「百間堀」といわれており、長さ約百間(180m)とされています。
 写真の右側が城内、左側が城外で、城内側には土塁が築かれます。土塁の内側には柵が設けられていたことが発掘調査や文献によって明らかになっています。

 

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