館城はなぜ築かれたのか?

館城はなぜつくられたのか?

 明治元(1868)年9月、松前藩は突如、藩の拠点を福山(現松前町)から厚沢部の館村へ移転することを決定します。
 なぜ松前藩は長年営んできた福山の地を捨てて、遠く離れた厚沢部館村へ本拠地の移転をしようとしたのでしょうか?

 2つの理由があると考えられます。

蝦夷地が日本の国の中に取り込まれ、これまでのような藩経営が困難になった。
 →館城築城の歴史的経緯について(準備中です)

明治元年のクーデターによって政権を握った「正義隊」を側面から支えた江差商人の働きかけがあった
 →正義隊のクーデターについて(準備中です)

 

関川重孝日記からみる館城築城の様子

 館城築城の様子は、勘定奉行兼作事方に任命された江差の豪商関川家の当主関川平四郎が残した克明な築城日記によって詳しく知ることができます。
 『江差町史第六巻』(江差町史編集室編1981)の翻刻をもとに、築城の様子をみていきます。

築城工事の開始

9月2日 館村の鈴木文五郎にあてて、遠眼鏡を送る

土木工事の様子

9月9日 近在人足150人手配
9月12日頃 土木作業の開始
9月23日 9月12日からの延人工数1,527人

大工工事の様子

9月14日 大工40人、木挽10人が館へ向けて出立
9月21日 福山から大工棟梁孝次郎はじめ、下職28名が江差へ到着し、館へ出立
9月28日 館城普請人員、大工棟梁浜田仁兵衛、孝次郎以下、大工小頭5人、木挽2人、平大工92人、下木挽21人、土方小頭7人、土方243人、人足183人 

内装工事の開始

10月14日 お城下建具師倉吉、栄吉、吉次郎3人、オンコ板14枚、桐板12枚、杉板38枚持参、館へ差し立たる
10月16日 白切金間似合300枚、白切玉子300枚、浅黄玉子300枚、御紅唐紙300枚(いずれも襖材料)を館へ送る
10月22日 畳370枚江差到着、28日までに館村到着とするよう手配

工事の完了

10月24日 礎柱立御棟上ご祝儀を大工棟梁仁兵衛がとりおこなう
10月26日 三上超順ほか11名の松前藩士が館から木間内番所へ出張する
(関川重孝日記はこの日をもって終わっており、明治元年分の築城工事もこの日で完了したとみられる)
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