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令和5年10月25日(水曜日)に館地域振興センターで実施した住民説明会の説明資料のうち、令和5年度の発掘調査成果を掲載します。
令和5年度館城跡発掘調査成果 [PDFファイル/2.02MB]
平成21年に地表面で建物の土台となった礎石の調査を行った。写真のように一人ひとりの担当範囲を決めてそのラインをピンポールを地面にさして礎石を探す作業を行っている。
全部で3棟の建物が発見され、特に建物3と命名されたものは藩主のプライベート空間と想定された。
礎石建物1はあまり注目されていないが、礎石の残りが良く、建物の規模形状がよくわかるものである。「賄い部屋」などと伝わっているところだが、縁側や廊下があり、書院風の建物ではないかと推測している。
礎石建物の配置は北側に建物1があり、南側に建物2と3が隣接している。
礎石建物2と3は江差増田家に残る『館築城圖』と共通点が多い。特に東側の建物3は柱配列の一致点が極めて高い。一方、西側の建物は図面と一致しない点が多い。平成21年度には建物が2つに分かれるのではないかと解釈した。
令和元年と令和3年に館城跡整備検討委員長でもある札幌学院大学の臼杵勲先生がレーダー探査を実施した(2p)。その結果、これまで礎石が見つかっていない場所からも何らかの反応が見られた。
レーダーは地中の電気的な特性が変化するところで反射率が変わることを利用しており、図面で黄色に着色されている箇所は深さ10〜30cmのところに異なる地層や異物があることを示している。この場合は礎石があることが想定された。
そこで、令和5年度の発掘調査ではいままで礎石が見つかっておらず、なおかつレーダーに反応があった2つの建物の間の空間を調査することとした。
今年度の大きな発見は3つある(p5)。
1つは東西の建物はそれぞれ盛土の上に構築されていること、もう1つは布堀状の地業がなされていたこと、さらにこの2点から建物は明確に2棟に分かれることが明らかとなった。
調査区を道路の方から撮影した写真。東西に盛土がなされ中央がくぼんでいる。くぼんだ中央が元の地表面で、20cm盛土に拠って嵩上げされている。
西側の盛土の断面。溝の下が旧地表面で固くしまったローム混じりの土で盛土がなされている。
画面左の方に後に説明する上下2層の礎石が見える。画面中央にある2つの礎石は旧地表面に据えられており、下層の礎石である。
地業というのは地盤に施される土木工事のことで、館城の場合、礎石が建物の基礎で礎石を据えるために地下に工事を行ったものが地業にあたる。
館城では溝を掘り、その中にロームや礫を充填して固めている。こうした地業の上に礎石を配置している。
地業は下層にローム、上層に礫が充填されている。幅が広い地業と狭いものが確認されているがこちらは底面の幅が50cmぐらいの太い地業である。
こちらは細い方の地業断面である。断面の構造は同じで下層にローム、上層に礫が充填されている。
礎石が上下2層で検出されている。手前の上層の礎石が実際に使用されたと考えられる礎石で、その下に盛土層を挟んで礎石がみえる。また、奥の方には旧地表面に据えられた礎石が確認できる。
旧地表面に礎石を据えた後、何らかの事情で整地が必要な事態が生じたため、設置した礎石を抜き取ることなく整地した上で新たな礎石を設置した可能性が高いと考えている。
もう一つの可能性として、軟弱な地盤や重量のある建物の場合に行われる「ローソク地業」のようなものがある。これは、縦方向に石を数段重ねたり、縦長の石を地面に深く埋設して建物の沈下を防ぐ地業だ。
下層の礎石は旧地表面を石の形状に掘りくぼめて設置されている。そのうえに盛土層や地業があり、さらに最上層には礎石の抜きとり痕がみえる。
盛土層を挟まずに、礎石同士が接するように配置された箇所もあった。このような場合、ローソク地業のように建物の沈下を防ぐ効果を期待した可能性も考えられる。
調査前にはレーダーの反応は未発見の礎石を示していると考えていたが、レーダー反応は布堀状の地業によく一致することが明らかとなった(p8)。
布掘状の地業は建物の柱筋を表すことから、レーダー反応から建物の柱配列を高い確度で推測できると考えられる。
もう一つの重要な成果は、増田家文書『館築城圖』と館城に建設された建物とは大きく異なることが明らかになった(p9)。
築城圖は館城御殿の設計図と考えられているが、今年度の調査の結果、東西の礎石群は盛土層によって明瞭に 2 分され、東西の礎石群は最短距離で 3 間(5.4m)離れることが明らかになった。
『築城圖』では、この空間に「御逢之間」や「御台子之間」など、館城の中枢とも言える空間であり、整地や地業、礎石の設置がされていないことは考えられない。すなわち、増田家文書に描かれた1棟の建物は成立し難いと判断できる。