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鶉ダムは灌漑を目的とした農業用ダムで堤高52.2m、総貯水容量10000千立方メートルの大きさで型式は※ロックフィル。
着工当時(1969年ころ)
完成当時(2001年)
※ロックフィルとはダム構造の型式で堤体材料に砂利、岩石、粘土などを使用し、ゾーンごとに材料を使い分ける構造。
農業用ダムの殆どはこの構造のようです。
昔、厚沢部の人たちは鶉ダムのある付近を稲倉石と呼び、箱館戦争の激戦の地として語り継いできました。
ダムを造ることができる地形だったことから切り立った崖が多く天然の砦として日本最後の城「館城」を守っていましたが、明治元年11月12日幕府脱走軍の奇襲に遭い守備隊は撤退。その後館城も陥落したそうです。
冬の稲倉石付近
碧血碑
稲倉石岩陰遺跡全景
この遺跡は、昭和52年のダム工事中に発見されたもので翌年に緊急発掘調査を実施したところ、縄文時代の土器や石器が二千点以上も出土されました。
現在はダム湖に沈みましたが、調査結果は資料としてまとめられ、郷土の先史時代を探る貴重な研究資料として残されています。